光明寺について
光明寺について
西宮でご葬儀や法要などを執り行う「光明寺」は、広島県安芸郡の倉橋島室尾にある妙行寺を起源としております。
昭和7年に妙行寺のご門徒が兵庫県の西宮へ移住した際に「光明寺」を建立しました。
「光明寺」の初代住職は、妙行寺の住職の次男だった永野慈海が、昭和29年に往生するまで務め上げました。
その後しばらくの住職不在の時期を経て、昭和45年に慈海の長男・一眞が引き継ぎました。
この時代に現在の鉄骨式の本堂が建てられています。
平成23年の親鸞聖人の750回大遠忌法要に合わせて一眞の長男・要眞が住職を継ぎ、当寺院の理念をしっかりと守りつつ、浄土真宗の更なる発展と、地域の皆様とのつながりを深めていくことに尽力しております。
平成25年 前々坊守永野冨美子の25回忌法要を執り行いました。
平成23年 永野一眞が住職を退き、息子、要真が住職を継職し、三世住職になりました。
平成23年 当山光明寺で親鸞聖人の750回大遠忌法要が執り行われました。
平成15年 初代住職五十回忌法要を執り行いました。
平成10年 蓮如上人500回大遠忌法要が執り行われました。
昭和54年 光明寺堂宇落慶法要が執り行われました。
昭和45年 永野一眞が二世住職を継職しました。
昭和29年 初代住職、永野慈海、往生。ご葬儀が執り行われました。
昭和7年 「香櫨園仏教会館」という名前で光明寺を建立。
昭和7年以前 広島県安芸郡倉橋島室尾より、妙行寺の御門徒が西宮に移住。
「光明寺」は西宮にある寺院ですが、その起源は広島県の安芸郡倉橋島、室尾にあります。
昭和7年に室尾から西宮へと移住されたご門徒様のご懇請と、当時の大阪・浄円寺のご住職・木村教雄師のお力添えがあり、「光明寺」が建立されることとなりました。
建立にあたり、初代住職は室尾の妙行寺の住職の次男であった永野慈海が務めさせていただくことになりました。
初代住職となった慈海は、昭和29年に脳溢血のために53歳で往生いたしました。
その後、慈海の長男であった永野一眞が住職になるまでの間、しばらく「光明寺」は住職不在の期間を迎えますが、その間は大阪の浄円寺のご住職であった木村教雄師が代理の住職として法務に従事しました。
昭和45年になって、初代・慈海の長男であった一眞が住職となります。
住職の不在という大変困難な時代が15年も続いてしまうこととなってしまいましたが、代務住職に就いてくださった浄円寺の木村教雄師、そして「光明寺」の存続に向けて多大なるご尽力をいただいたご門徒の皆様の手厚いご協力により、二世住職を迎えることができたのです。
皆様の強い想いにお応えできるよう、二世住職・一眞は「良き古きものを守り、同時に新しく優れたものを導入する」という姿勢で、様々なことに取り組みました。
現在の鉄筋造りの本堂は、時代を予見した建築と言えます。
数々の行事も行い、「光明寺」は西宮という地域にしっかりと根を下ろしていくこととなります。
親鸞聖人の750回大遠忌法要が平成23年に営まれましたが、それに合わせて一眞の長男である要眞が住職を継ぐこととなりました。
一眞が掲げていた「良き古きものを守り、同時に新しく優れたものを導入する」という理念は守りつつ、さらに時代の移り変わりに合わせて柔軟に対応、時には大胆な変化も取り入れながら、浄土真宗の発展に努めていく所存です。
三世住職・永野要眞は、住職を引き継ぐことになる以前より、寺院の新聞「天下和順」を作成し、寺院とご門徒の皆様、そしてご門徒の方どうしの繋がりをより一層深めていけるように努めております。
今後も「光明寺」はこの西宮の地で、地域の皆様に頼っていただける寺院であるよう励んでまいります。
西宮でご葬儀や法要などあらゆる仏事のご相談を承っている「光明寺」は、兵庫県の西宮市という住宅地にある寺院ですので、周辺にお住まいの方々との繋がりを大切にするようにしております。
ご葬儀に関することに慣れておらず、知識があまりなくて不安をお感じになっている方をしっかりとお支えいたします。
また普段お寺に馴染みのない方にもお気軽にお越しいただけるよう、いろいろな行事を行っています。
お寺というものは決して敷居の高い場所ではありません。
仏事に関係のないお悩みごとでも結構ですので、何かに迷われているときはぜひ「光明寺」へご相談にお越しいただければと思います。
親身になって皆様のお話をお聞きいたしますので、「誰かに話を聞いてほしい」というときには遠慮なく「光明寺」まで足をお運びください。